さて、それとは関係ありませんが昨今人工知能が急速に進化していて、チェス、将棋、囲碁などの競技ではもはや人間に勝ち目はありません。自動翻訳もこの一年くらいの間に急速に進歩しているのだそうです。その技術が完成するともう英語ができないことにコンプレックスを感じなくて済む。便利な世の中になったものです。
でも便利って何でしょう。もともとは狩猟採集生活をしていた人間は、なにかの事情で穀物を蓄えることを覚えました。不安定な狩猟採集より穀物の貯蓄ははるかに安定的に食物を供給できます。これで飢えなくてすむ…、はずだったのですが今度は食物の供給と同じスピードで人口が増加してきました。朝は朝星夜は夜星。夜を日に継いで働いても庶民はかつかつな生活しか営めない。便利さと引き替えに自由とゆとりを失わなければならない。
どちらが幸せなのか?
しかし一度流れが決まればもう押し戻すことはできません。今もそのような時期なのかもしれません。
便利さは良いものです。いくら欠点を指摘しても今さら狩猟採集生活に戻れるわけではありません。でも、最近は幼児施設も便利で安全で作り込まれたものであふれています。それは一定仕方のない部分もありますが、それだけではいけないのではないか。
教育とはその字の通り教え育てることです。学ぶこととイコールではありません。エデュケーションの語源は引き出すこと。どちらにしても教師のなんらかの援助が必要なので、便利なおもちゃや道具をあてがっておけば良いわけではありません。
人間は、特に幼児期は何かしらの不便や困難があった方が便利なものよりずっと楽しい。私はそう思います。
さて昨日はお店やさんごっこ を行いました。物はお金を払っておつりをもらって、お金を払う段になって足りないことに気づいて赤っ恥をかいたりして、お店はお店で初めからできあがっているものを売るわけではないから作るところから始めて売り方も工夫して、そういう面倒くさいことをしてやっと商売が成立します。
「教育とは希望を語ること。学ぶとは誠実を胸に刻むこと。」(ルイ・アラゴン)
教育の話はとても楽しい。

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