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遊び

 例えが適当かどうかはわかりませんが子どもの遊びは賽の河原の石積みに似ています。あるいはジジフォスの神話というべきでしょうか。
 遊びに没頭しているところに大人が介入して強制的に終了させられ、達成感は途中で阻害されます。
 保育者が葛藤するところです。集団生活のルールを優先して「もうおしまいですよ」と中断させるべきか、せっかく遊びに没頭しているのだから子どもの自主性を尊重してそのまま遊びを続行させるか。
 正解はありません。
 あくまでも私見ですが、子どもは遊びを中断させても次の時にはまた何事もなかったかのように一から始められ、それが子どもの特性でもあると思います。ですから中断させてもかまわないと私は個人的には思いますが、それは園なり保育者なりが決めることです。どちらをとっても不正解ではありません。
 少し話は変わりますが最近はアクティブ・ラーニングが大流行でドラマにも登場するようになりました。でもこの言葉が人口に膾炙するようになったのはこの二三年のことでしかも日本生まれの言葉です。欧米の教育はそもそもアクティブ・ラーニングで、むしろその弊害も指摘されているくらいです。
 教育はその字義通りでいえば「教えて育てる」ことです。一方で英語で教育に相当するエデュケーションは「引き出す」という意味の言葉にその語源があります。「教え育てる」というとなにか古めかしくて管理教育のにおいがして、「引き出す」の方が今風で良いような感じがしますがしますが、必ずしもそうとは限りません。
 戦後の時期、ジョン・デューイらの自由主義教育がアメリカから輸入されました。戦前の上意下達的な教育法に比べて子どもの人権と自主性を尊重した素晴らしい教育法のように見えますが、これは「はいまわる経験主義」と批判されてあえなく潰えました。
 「はいまわる経験主義」とは「一日中床を這い回って遊んでいればそりゃ楽しくて良いよね」ということの揶揄的な表現です。全否定されたわけではありませんが主流ではなくなりました。
 第二波がいわゆる「ゆとり教育」です。管理教育に対する批判が根底にありますがこの顛末は皆さんご存知の通りです。
 どれも間違っているわけではありませんが日本人の心性に合わなかったのか成功したとはいえません。
 それに比べれば今回は日本の国力(といっても経済力ですけど)に低下とPisaショック(Pisaショックは日本に限らず多くの先進国が経験しています)に由来してより国もより深刻にとらえより真剣であるようですが疑り深い私としては本当にそうかなという思いはあります。
 日本人は知識はあるがそれを活用する能力が乏しい(これも本当にそうかはわかりません)と言われていますがそもそも考える力だけあって基本的な知識がなければ何の意味もありません。
 知識と考える力は不即不離のもので片方だけ育っても意味がない。
 どうも今はアクティブ・ラーニングという言葉が独り歩きして、中には「これはアクティブ・ラーニングなのかな?」と疑問を抱くようなものまでアクティブ・ラーニングをうたっています。疑り深い私としてはここらでちょっと立ち止まって考えるべきかなと思います。
 無学な私が言うのも何ですが学問の基本は「すべてを疑え」です。
 ※念のために申し上げますが私はアクティブ・ラーニングを否定しているのではありません。

 掘って掘って、ただ深く掘ったり、水を流したり、トンネルを作ったりお山を作ったり、おもちゃを家やお店や工場や道に見立てたり、砂場は融通無碍です。
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 古タイヤも応用範囲の広い遊具です。転がすのは当然として遊具の補助具になったりこのようにねぐらになって一国一城の主になれたり、いろいろなものに見立てて遊ぶことができます。既成の遊具ではできないことです。
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 ホームセンターで買ってきた(ここだけの話ですが)安いマットです。でもこれを外で使うと遊びが広がります。
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 なお念のために、こういうものしかない幼稚園ではありません。既成の遊具はそれはそれで楽しい。ただこういうものを使うとお金をかけなくても、あるいはお金をかけるよりも幼稚園はずっと楽しくなります。
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